高槻城跡
2020年02月14日
近くて遠かった「高槻城跡」!!
私はいろんな城跡を探訪するのが好きな”お城フェチ”ですが
一番近い、地元と云える高槻市は何故か行ってませんでした。
何度も近くを通りかかるのに、チャンスが無くそのままで・・・
今回、休日に行こうと思う場所がなく、何処へ行こうかと
ネット検索して色々探してみますと・・・
そうだ!! 高槻城跡はまだ行ってないという事と重なり
梅も少しづつ咲き始めているとの情報もあり、
この機会に行ってみようと思い立ちました!!
国道171号線を東に・・・「高槻市役所前」交差点を右折れ
すぐに目的地がありまして、やっぱり近いなぁ~と・・・
ただし高槻城跡公園の一部が工事中で駐車場が見当たりません。
やっと、民間のTimesを探し当てまして公園へ・・・
こちらの高槻城主は色々と移り変わりが多かったようですが、
中でも一番有名なのが ”高山右近”
お城ファンで無い皆様でも、一度位は名前を聞いたことがある?と思います。
「高山右近」はキリシタン大名と呼ばれる。
高山氏は現在の大阪府豊能郡豊能町の出身で、
6歳から大和の国・沢城(奈良県宇陀郡)に住み、12歳のときに
父・飛騨守(洗礼名ダリオ)の影響で洗礼を受け(洗礼名ユスト)
その後高山親子は芥川城主を経て、1570年頃高槻城に入り、
1573年父・飛騨守が城主となり、同年続いて右近が
21歳で高槻城主となったようです!!
高山右近の領内におけるキリシタン宗門は盛況で
1581年頃には高槻の領民25,000人のうち
72% の18,000人がキリシタンだったと文献に記されています。
織田信長や徳川幕府による”キリシタン禁教令”にて
国外追放され、マニラへ渡り、63歳で生涯を閉じたようです!!
高山右近とキリスト教徒の関わりは、ネットや文献にて
たくさん紹介されておりますので、興味のお有りの方は
ご自身にてお調べになって下さいませ!! (笑)
さて、いよいよ公園に入ってまいりました。
もっと大きな規模の城跡を想像していたのですが・・・小さいです。
まず目につくのは”高山右近の石像”・・・
威風堂々と来園者をお迎えしてくれます。
隣には高槻市教育委員会の説明看板がこのように立っています。
その隣には”本丸跡の石垣”(復興されたもの)と太鼓橋のかかった池が
城跡の雰囲気を醸し出しております!!
近隣の方の散歩や、母子の散歩、ベンチで読書を楽しんでる方
高槻市民の憩いの場となっているようです。
その奥に、梅林がありチラホラと開花しており、
なかには白梅が満開の木も見かけられます。
顔を近づけると梅の花の香りが仄かにいたします。
本来は、この倍以上の敷地の公園だったようですが、
新しい公共の建物が建設されるようで、城跡は狭くなっておりました。
高槻市立しろあと歴史館はちょうどこの日は休館日で
高槻城の歴史に触れることが叶いませんでした・・・残念でした。
城跡の周りを歩いてみると
「高槻城内・高麗門」が「本行寺」に残されており、健在です。
この辺りはお寺も多く見られ、街の道路も真っ直ぐではなく、
敵が攻めにくいように枡形となっているので、
城下町の面影を今に残しております!!
右近が信仰したカトリック教会も町のあちこちに残されているようです。
中でも「カトリック高槻教会(高山右近記念聖堂)」はご覧の通り。
正面入口左側にはイタリアの彫刻家「ニコラ・アルギィニ氏」が
寄贈した右近の石像があります。
この辺りをもっと散策すれば、高槻城や高山右近の痕跡が
いっぱいあるように思われますが・・・
本日は時間がないので、またの日に訪れて
街歩きを楽しみたいと思っております。
《タケナカ》
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