京都・高瀬川
2019年08月09日
先週、親族の仏事が京都で有り、参列いたしました。
法要も無事に終わり、その後「食事」となりました。
前回も「がんこ高瀬川二条苑」でしたが、今回も同様に・・・
こちらは「角倉了以(すみのくら りょうい)」の別邸の跡地を
《 がんこフードサービス株式会社 》が「お屋敷がんこ」として
京都市民の皆さまや観光客に親しまれています。
琴の音色が流れている店内は、会席料理を美味しく頂けると同時に
日本庭園が堪能でき、スタッフの女性の皆様は全員着物姿、
庭園の一角には江戸時代初期に”小堀遠州”により作られた
”茶室”などが現存しており
食事後に希望するなら、庭園を散策することも出来ます!!
夏には「川床」も設営され、観光客を楽しませてくれます。
故人の思い出話に花が咲き、あの時はアァだったコゥだったと、
私も知らなかったエピソードも盛りだくさん・・・
親族一同の食事も無事に終了!! 三々五々と帰路につかれます。
実は私にはこの後にもう一つの目的が有りました。
それはお店のすぐ向かいにある「高瀬川」に行くことでした。
皆様ご存知の《文豪・森鴎外の名作「高瀬舟」》で有名です。
その高瀬川についてネットで検索した知識をお話申し上げます。
先に別邸跡地でご紹介しました「角倉了以」のお話です。
京都の医家・吉田家四代目として生まれた角倉了以(1554~1614)。
吉田家は足利家から代々幕府に仕え医学の発展に尽くし
金融業も営んで「京の三長者」に挙げられる裕福な家柄でした。
角倉了以は医者を継がず実業家として生きたようです。
吉田家の本家が角倉家だったので後に角倉と名乗ったようです。
角倉家は南蛮貿易で財を成し朱印船貿易で安南(ベトナム)と交易。
実業家として、保津川の開堀や大仏殿再興などの事業を終えた後
水運としての京と伏見を結ぶ高瀬川の開削に至ったようです。
そうなんです・・・高瀬川は人工の運河なんです!!
今年は高瀬川が開削されて400年という記念の年だそうです。
高瀬川は角倉了以・素庵(1571~1632)親子によって開削され、
京と伏見を結ぶ全長約11キロ・川幅は約8㍍の人工運河です。
二条城大橋の南で鴨川から取水し十条通上流で鴨川に合流、
そして竹田街道と並行して西へ、宇治川に合流し、
伏見の港から淀川を経由して大阪とも繋がりました。
水深が約30センチと浅い高瀬川は船底が平らな高瀬舟が航行し、
船には船頭が乗り、曳き子が岸から綱で引っ張っていました。
最盛期には700人の曳き子、159隻の高瀬舟があったようです。
人力で船を京から伏見まで曳いていたなんて・・・
現代の私達には信じられないことです。
開削費用は今のお金にして約150億円。
角倉了以は開削費用はもとより高瀬舟の造船費用にも私財を投じた
ようですが・・・運河航行使用料を徴収することで
莫大な利益を得たと言われております!!
(さすが実業家です、転んでもただでは起きない)・・(笑)
余談ですが、高瀬川沿いの木屋町通りは歓楽街として有名で、
こちらの「幾松」はいかにも京都らしい奥まった所(鰻の寝床)にあり、
幕末の桂小五郎とのゆかりの店として今も超有名店です。
法要にかこつけて、京都の歴史を学びました。
京都という所は、流石に歴史の街で、超有名な観光名所だけでなく
一筋入った路地裏にもいろんな歴史があり、
何度訪れても次々と訪ねたくなる街です。
また、暇を見つけては探索の散歩にでかけましょう~~
《タケナカ》
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