「多田銀銅山」
2018年05月18日
伊丹市まで”新鮮野菜”を買い求めに行った休日、
あまりにも晴天で気持ちが良いので、
何処かへドライブに行こうと・・・こんなプランはすぐ決まる (笑)
三田市の「有馬富士公園」を目指して走り始めた・・・
兵庫県道13号線から12号線へと北上。
「清和台」「つつじヶ丘」を越え、「広根大水口」交差点手前で
『多田銀銅山』という道路標識を見つけたぁ~~
何だぁ~?? こんなところに銅山なんてあったっけぇ~~
またまた、寄り道をするいつものパターンです。
慌ててハンドルを左に・・・有馬富士公園はどうなるの?? (笑)
山道を10分足らず走ると見えてきました「多田銀銅山・悠久の館」、
初めてなので、ここは??? 資料館みたいだなぁ~~
2015年10月7日・「国史跡に認定」の看板があり、
早速、「悠久の館」に入館してみる・・・(無料というのが嬉しい)
館内は・・撮影には許可がいります・・との張り紙があるので、
画像でご説明できないのが残念です。
国史跡「多田銀銅山遺跡」は豊臣秀吉が開発し、
昭和まで銀や銅が掘られた鉱山だと書いてある。
こちらの館では大阪・北摂地域にわたり広がった鉱区の説明やら
採掘に使われた道具類、古文書、古地図、絵図面などなど・・・
銀銅山の歴史が詳しく書かれておりますが、
ブログで説明出来るほど簡単なことではないので、割愛いたします。
他には、採出された鉱石なども置かれています。
触っても良いとのことで、実際の鉱石を持ち上げてみたのですが、
隣りにある普通の石と比べると、すごく重さを感じます。
やっぱり銀や銅が含まれた”鉱石”なんだと実感しました (笑)
古文書類には採掘に関わった、時代時代の人々の様子や
寛文元年(1661年)には幕府の直轄の鉱山となり、代官所が置かれ
番所が設置され、鉱山の管理された様子や、寛文4年(1664年)には
銀3,600貫目、銅75万斤を産出し、「銀山三千軒」といわれた
当時の賑わいぶりを示す資料が満載です!!!
次は向かい側に有る「悠久広場」
明治時代に操業された「堀家精錬所」の跡地が見学できます。
地上に残存するレンガ構造物とレンガ敷遺構の復元展示されてる他、
鉱山での生産工程や作業状況が詳しく説明されています。
・・が、私には難しすぎて殆ど理解できません・・(ア~ァ)
山の斜面には、精錬する時の亜硫酸ガスを逃がす「煙道跡」や、
水抜き通風穴跡が今も残されています。
悠久の館の川を挟んだ向かい側には、かつて現存していた
天領地の「代官所跡」の建物跡や、「高札場跡」も見られます。
最後に15分位、山に登った場所に現存する「青木間歩」へ・・・
向かう途中で先を歩いていた妻の””ギィヤァ~~””という悲鳴!!
慌てて駆けつけると・・・その正体は”ヘビ”でした。(苦笑)
バカな私は写真を撮りました (笑)
鉱山の神様をまつった「金山彦神社」は全国各地の鉱山で建立され
こちらの多田銀銅山では、大同2年(807)に建立され、天禄2年(971)に
”源満仲”により修理がなされたという伝承が残っているようです。
「青木間歩」は江戸時代に採掘されたと思われる、手彫りの露頭堀りと、
削岩機などの機械を使って採掘された坑道との両方が見られ、
照明設備も有り、唯一、坑道内を体験できる間歩のようです。
「閉所恐怖症」の妻は、”絶対に入らない”と言うので・・・
私もあんまり好みではないんですが、一人で恐る恐る入ります・・・
中は坑道特有の湿気と薄暗さ・・・
でも鉱夫さんはここで、ノミと金槌でひたすら掘ったんですねぇ~~
そんな跡が、そこここに・・・手彫りなんて凄いことですよねぇ・・・
水やガスに苦しめられながらコツコツと、「頭の下がる思い」です。
違う目的から、思わぬ”鉱山”を見学できてラッキーというか、
今までこのような歴史ある場所を知らなかった
我が身の無知の恥ずかしさと言うか・・・
こうして訪れることが出来て、鉱山の歴史に触れさせていただけて、
良い休日を過ごすことが出来て、良かったぁ~~
”寄り道ドライブ”・・・これからもドンドン実行したいよぉ!!
今回は伝えたいことがいっぱいあって、
ダラダラと長い文章になったにもかかわらず、
最後までお読み頂いて、本当にありがとうございました (礼)
《タケナカ》
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